絶望を乗り越えるための仏教

どのようにして絶望したか、そしてをそれを乗り越えるために何をしたか

「そのままでいい」という困難

セラピーにしろ宗教にしろ一つの考え方としてクライアント(受け手)を

「そのまま」「ありのまま」肯定するというアプローチがあります。

それは一つ有効な手段だと思います。

なぜなら、人は基本的に他者からの承認を求めるものであるからです。

 

セラピーや宗教に自分に対する「救い」を求めているのならば当然でしょう。

原因が病気であるとか、障害であるとか、不幸であるとか様々だと思いますが

「救い」を必要としている人というのは、現実的な社会ではうまくいっていない人、

といえます。

 

社会において他者から認めらえる、受け入れられるにはいろいろな方法があります。

例えば、良い職業に就くとか、良い収入を得るとか、難しい資格を取得するとか、

難しい大学に受かるとかそういった自身の努力によって得るもの。

あるいは容姿が良いとか、家がお金持ちであるとか、頭が良いとか努力ではなく

自分の努力ではなく、いわば先天的に決められた資質や環境によるもの。

これらは手に入るのであれば誰もが手に入れたいものかもしれません。

 

しかし、なぜ誰もが手に入れたいかといったらそれが社会的に価値があるものとされて

いるからです。経済的な観点から言えば

「価値のあるもの」=「希少なもの」です。

皆が欲しがるもの、そして欲してもなかなか手に入らないものだからこそ、価値がある

といえます。これが何を意味するかといえば

価値があるものというのは多くの人にとって手に入らないものだ、ということです。

それはそのまま、

価値があるものを持つということを成功や幸福の条件にするならば、

多くの人が不幸になるということです。

 

こんなことはある程度生きていれば経験的にわかるものです。

そのように誰もが欲するような価値のあるものは、簡単に手に入るものではない。

だから、もっと個人的なものを、自身の目的としたり、価値のあるものとするのです。

やりがいのある仕事を見つける、熱中できる趣味を持つ、好みの伴侶をみつける、など

それにも様々な種類があります。それを得ることができれば必ずしも成功や

幸福とは言えないかもしれませんが、自身の満足を得られるものです。

 

もし、社会的に価値のあるもの、個人的に価値のあるものを

得られないとするならばその人はどうなるでしょうか。

自分に対し幸福も得られず満足も得られないかもしれません。

それでも例えば、仲の良い友達がいるとか家族がいるとかそういうことで

人は生きていくことができます。まず健康的な体があればとりあえず

働くことができます。

 

しかし、それも得られないとしたら。

収入もなく仕事もなく学歴もなく実家も貧乏で友達もいない。そんな状態だったら?

それは自分が努力してこなかったからではないか。少なくとも個人的に得ることが

できたものはたくさんあったはずだ。それをしなかったのは本人が悪い。

これは至極まっとうな意見でしょう。

 

生きいくということは、生存するということは努力し続けるということです。

本来生物はそのようにできています。自然環境のなかでは生きる努力をしなければ

すぐに死んでしまいます。努力をしなくてもある程度生きられるというのは

人間くらいのものでしょう。

 

それでも、です。社会には構造的に必ず自己承認に必要な材料を得られない人は

確実にいます。病気や障害など先天的な要因から、育った家庭環境、国、時代、

個人ではどうしようもないことが原因となることもあります。努力ができる、

がんばることができる、ということも様々な好条件が集まった結果であると

いえるでしょう。いくら努力しても結果が出ず、頑張っても認められないのであれば

努力をしようという意欲もなくなっていきます。

 

そんな人は何によって救われるのでしょうか?社会的にも個人的にも自己を承認できる

材料は何もないとしたら。あるいは本当は持っていたとしても、それを自分では

認めることができないとしたら。

 

そうなったら、社会や自分自身とは違うものに認めてもらうしかありません。

現在が不幸であるならば、誰かに不幸な自分を認めてもらわなくては生きているのが

辛いでしょう。不幸の原因に着目しその原因さえ取り除かれれば、

幸せになると考えるならば医療やセラピー(これには医療に属するものから、

宗教に限りなく近くなるものまで様々です)に頼ることになります。また

現世利益をうたう宗教(特に新興宗教が多いとは思いますが)もいう通りにすれば

不幸を取り除いてくれるというかもしれません。

 

しかしこのような発想には弱点があります。原因が取り除かれなかった場合

救いを求めていた人は大きく失望します。そして原因を取り除くとうたう

存在から遠ざかっていくか、また新たに救ってくれる対象を探します。

 

世界中で信仰されている普遍宗教にはこのような弱点を避けるような構造があります。

キリスト教イスラム教も(大乗)仏教も基本的に現世では

救われるのかわかりません。現世では結果がわからないが信じる。

これはある意味承認されないという「結果」さえも受け入れる態度を求めている

といえます。現世(世俗、一般社会)における価値ではない別の価値体系が

あることを提示するのです。

 

しかし、実際には人間はそんなに簡単に社会とは違う価値体系を

信じきることはできません。それはやはりいくら宗教的価値は判断のもとに

生きていようとも、苦しいものは苦しいし、辛いものは辛いのです。

世界宗教に受苦や禁欲、忍耐といった教えが含まれるのは裏を返せばそれを

宗教的に肯定しなければとてもやっていられないという現実があるからです。

 

そのままでいいと認められたい。でも本当はそのままでいいと認められたところで

それで解決するわけではない。

例えば、マザーテレサは真に義人と呼ぶにふさわしい方だと思いますが、

『来て、わたしの光になりなさい』には彼女が神の存在を信じられず

信仰することに悩み苦悩する様が描かれています。それは彼女の直面する現実が

あまりに厳しく悲劇的であったためだと思います。

 

周りの人から聖女と称えられ希望の対象になるほど立派な人でも、

自身の信仰が揺らいでしまうほど残酷な現実はあります。そのような現実と

対峙した時にそのような現実の中にいる自分を「そのままでいい」と

本当に認めることができるのか、 それをたとえ絶対的な存在に認められたところで

自身は真に納得することができるのか。

 

これは「救い」をもとめる全ての人に関わる困難です。

「そのままでいい」ということも認められず、

「そのままではダメ」だからと努力しても

それが成就するとは限らない。ここまで来てそれでも、

「そのままでいい」とそこにとどまり自身や世界を肯定するか

「そのままではダメ」だと一歩を踏み出し自身から抜け出していくのか、

どちらの立場も決死の覚悟を必要とします。

 

わたしの信じた仏教は、命がけで一歩を踏み出し暴風吹き荒れる荒野を

一人で往くような、そんな教えでした。