絶望を乗り越えるための仏教

どのようにして絶望したか、そしてをそれを乗り越えるために何をしたか

「苦」を知る

あの時期は、1日に9時間ほど外を歩きながら瞑想し、家では2時間座っていました

(その合間にも歩く瞑想や立つ瞑想、食事の瞑想を行っていました)常に気づきを

保つようにし、疲れ果ててよく気を失うように眠っていました。

それでもそのようにしていることが、当時の自分にとっては一番楽だったのです。

 

ある時、あまりに腰痛がひどくなり、普通には歩けなくなりました。それでも

ゆっくりでも半歩ずつでも歩き続けていたのです。それでもなんとかもう少し

動けるようにならないかと、腰に負担をかけずに歩くことができる

市営プールにいきました。

 

そこには、体を温めるための湯船やサウナがあり、そこで体を温めストレッチを

しながら、水中歩行をしたり泳いだりしていました。

しかし、一度ひどくなった腰痛はなかなかよくなりません。座りすぎて痛む膝も

わたしを悩ませました。

それでも続けることができたのは、そんな体の状況も心も

ヴィパッサナーできたからだと思います。

いくら辛くてもある客観的に冷静にみることができました。

ヴィパッサナーを続けていると、「からだが辛い」「膝が痛い」「腰が痛い」「

思い通りにできない」といった感情とそれに対する「怒り」が心の中で

渦巻いているのがわかりました。

 

しかし、湯船から上がってくる泡を見ていた時、不意に

「苦しみからは逃げられない」という思いが沸き起こりました。

普通ならあまりにネガティブな思いですが、そのときは憑き物が落ちたように

すっきりしたのです。そのまま湯船から出て帰り支度をしようとシャワー室に

入りました。

「いくら、逃れようとしてもこの苦しみから完全に逃れることはできない」

そう思いながらシャワーを浴びると不思議なことが起こりました。

そのとき頭には洪水のように「苦、苦、苦、苦」というラベリングが閃き、

まるでシャワーの水一滴一滴に対し「苦」を感じているようでした。

それは「苦」そのものを浴びているような・・・。

 

これは感覚(受)とは「苦」であるのだと心から認識した経験でした。

それ以来自身のからだに対する苦しみを受け入れるのは、

難しいことではなくなりました。