絶望を乗り越えるための仏教

どのようにして絶望したか、そしてをそれを乗り越えるために何をしたか

「受け入れられない自分」を受け入れる

 障害を持った人(わたしもその一人ではあるけれど)と話していると

その人自身が障害者に対して強い偏見をもっていることがあります。

それは単純に誰かの受け売りかもしれないし、自分がされてきたことを

そのまま他の人にやり返しているだけなのかもしれません。

 

しかし、わたしは、はじめそのことに強い嫌悪感を抱いていました。

自分自身が辛い目にあっているのに、なぜそんな酷いことをいえるのか、と。

それは他人をないがしろにするのと同時に

自分もないがしろにしていることではないかと。

 

ある瞑想会に参加した時、指導してくださった方が法話をされていて

そのときにこんなことをおっしゃいました。

「人は苦しみの数だけ優しくなれる」

その方は今現在苦しみを抱えている人に対して

それを肯定する意味で言ってくださってのですが、

わたしはそれを聞いてそんなに単純なものではないと

思ったのです。

 

実際には、苦しみを感じている人は、人に対して余裕を持って対応できないし

虐げられてきた人は、攻撃的になったりもします。

優しさを向けているようで、単に過去の自己を投影しているだけだったり、

自分自身を守るために過剰に親切にしていることもあります。

 

これは障害や病気の有無に限らず誰にでも心当たりのあるものだと思います。

ひとは多かれ少なかれ苦しみを抱えているものだから、

単純にひとを大事にしたり、慈しみをもったりすることはできないのです。

 

そういうことを理屈で知りつつもわたしは、嫌悪感をなかなか抑えることが

できませんでした。どうして自分がされて嫌なことをひとに対してしてしまうのか。

それをしないことは人として最低限守らなくてはならないことではないか。

わたしは正義とか倫理とかそういうものに強いこだわりがあったのです。

「人はこうするべきだ、こうあるべきだ」という妄想に囚われていたのです。

 

仏道の実践を行うことは、執着から離れていくことと言えると思います。

執着は怒りや欲、悲しみや失望などあらゆる苦しみを生むからです。

様々な人、もの、出来事、自身の思考、信念、信仰、思い出など

それは大切なものであるとともに、人をがんじがらめにして身動きを

取れなくするようなものでもあります。

そういうものから離れていく、無くしていくというのは心を清浄にしていく上で

大切なことです。

 

しかしそれを実践するときに大切なことがあるように思います。

それは安易に自身の心を押さえつけないことです。

冒頭の話でいえば、わたしが「たとえ自身が散々虐げられてきたとしても、

他人のことを虐げて良いということにはならない」と感じたことは

簡単に否定してはならないことです。確かに虐げられた人間が

苦しみ、嘆き、悲しんだ結果、人に優しく接することができないというのは

仕方のないことです。ただそれが理解できることと、その人を心の底から

許すことができることとは違うのです。

 

当然すべての生き物は苦しみを抱えていて、それに対してあまねく差別なく

慈しみの心を向けられるというのが理想です。そうすることが自分の心の

修行になるからです。それでも他の生物に対しては素直に向けられる慈悲の心が、

人に対してはうまく向けられなかったりします。なぜ、こんなに愚かなのか、

理不尽なのかとても許せない。戦争をして殺し合って、相手を悪者にして

差別をし合って、苦しめあってどうしようもない生き物にみえる。

それは事実です。そしてそれを肯定することも困難なことだというのも

また事実であるといえるでしょう。

このことは誤魔化してはならないことだと思います。

人というものはそういうものなのだからしょうがない、

そういう生き物なのだと割り切ることは、できなくて仕方ない。

悪だと思うものを許せない、それもまた人としての性質です。

 

ですから、自分が悪いと思うこと、どのように肯定的に考えようとしても

決して肯定できないことは、それを適当な理由をつけて受け入れる必要は

ないのです。それは、「瞋」を避けることであっても「痴」を避けること

ではありません。自分が許せないこと、しっかりと判断できて

いないことを、誤魔化して受け入れることはないのです。

その誤魔化しは自身の心に濁りや歪みを引き起こします。

 ではどうしたらいいのでしょうか。

 

「受け入れられない」という自分を受け入れる

 これが仏教の実践が示してくれた一つの答えです。

自身が納得できていないことは、それを否定すればするほど、

押さえつければ押さえつけるほど、より複雑で厄介な形で戻ってきます。

だから「自分はこれを受け入れられない、いくら考えても無理だ」と

「思っていることそのものを」一旦受け入れてしまうのです。

自分はまだまだ頑固な部分がある、こだわりがある

それは事実だ。否定しようがない、と素直に認める。言い訳もしない。

 

こういうアプローチは、先ほどの無理に納得したり肯定することとは違います。

「納得できない、肯定できない」と思っている現在の自分そのものを

受け入れる。これは「痴」を生み出しません。「納得できていない」ということは

自分では誤魔化しようのない事実であり、

そのことを自分ではっきりとわかっているからです。

このような形の受け入れはをすれば、心に厄介な歪みや複雑さ

不要な屈託を抱え込まずに済みます。

これは、他の煩悩に対するやり方としても、有効なことです。

 

しかし受け入れ難いことを、否定するわけでもなく無理やり肯定するわけでもなく

「受け入れる」などということが本当にできるのでしょうか。

これは言葉で説明するとややこしく見えますが、ヴィパッサナーを行えば

すんなりできることなのです。一時的にでも煩悩が抑えれれば、心の機微が

観察できるようになります。受け入れがたさ、これは基本的に怒りなのですが、

その怒りが沈められるとそのもっと根本にある原因が見えてきます。

過去にした経験、そのような「怒り」を引き起こしている原因そのものが

見えるのです。「その時は、確かにそう思った。自分はひどく怒っていた」

それは事実としてみることができる。そういう記憶は確かにあり

それが原因でその物事に対する受け入れがたさを持っている、偏見思っている。

それを本当に確信をもって知ることができるのです。

すると、自分の心とそこで起きていたこと、そして現在起こっていること

(偏見を持っていること、嫌悪感を持っていること、許せないこと)

すべてをまるごと受け入れることができるようになります。

それは、自分の嫌な部分を受け入れながらもまったく、暗くならない、

明るい受け入れの仕方なのです。

 

「自分はまだまだ執着を持っている。でもまぁ今はこんなもんでしょ。

これからまだまだ、やっていかなきゃだめだけどね」と。