絶望を乗り越えるための仏教

どのようにして絶望したか、そしてをそれを乗り越えるために何をしたか

正しいことをするということ

仏教(パーリ経典に描かれるような)においては「正しいこと」というのは

それそのものとして存在するものではないようです。

八正道の定義など(中部『大四十経』にまとめられているように)「正しいこと」

というのは「『悪くこと』をしないこと」として表現されています。

これは少し回りくどいようですが、非常に合理的な考え方です。

 

なぜなら「正しいこと」「良いこと」を定義するのは難しい。

それは正義に対する議論が盛んに行われていることからも明らかです。

誰かにとっての「正しいこと」というのは、誰かにとっての間違ったことであり、

時ににその「正しいこと」の押し付け合いが争いの種となります。

それは国同士の争いや宗教的な対立のような大きい話だけでなく、

ごく身近なものにおいてもそうです。

道端のゴミを拾うとか、職場をきれいに保つとか無条件に「良いこと」といえることも

確かにあるのですが、特に人に関わることにおいては何が良いことなのか

よくわからない。

例えば障害を持った人が何かできないことがあるとします。

それである人は「障害をもっているのだから」ということで

なんでもやってあげてしまう。

やってあげる人は善意で、優しさでやってあげるのです。

当然される側もやってもらえるのであればやってもらったほうが楽です。

する側もされる側も「良いこと」と思ってやっている。

でもそうするとやってもらう側の人は一人では何もできなくなってしまいます。

(本当はこんなに単純ではありませんが)

それは長期的に見れば本人の不利益になるばかりか、

高齢であればその人の寿命にも関わってくるかもしれません。

自分の力でやる、できることがあるというのはそれほど大事なのです。

かといって、障害ゆえにできないことを放っておくわけにはいきません。

それは「(能力として)できない」のか

「できるのに、(やりたくないから)しないのか」

「できるのに、(障害ゆえに)やる意欲が起きないのか」

「(今は)できないけれど、(その先も考えて)やらなくてはならないのか」

いろいろと考えなくてはならないことはあります。

これは非常に微妙な問題です。

援助する側が「良かれ」と思ってやったことで

援助される側に喜んでいたとしても、実は本人にとって不利益になることもあるし、

援助される側が嫌な思いをしたとしても、それゆえにより重大な危険を

避けられたりするかもしれません。

これは結局のところわかりません。それがどのような時点で「良いこと」といえるかは

わからないからです。

これに援助する側の状況も入ってくる(例えば時間的な制限があり限られた

援助しかできない、とか経済的、体力的制限とか)ともう何をするのが「正しい」

といえるのかわからない。

他者に対して絶対に「正しい」ことをするのはほとんど無理です。

これはいわゆる「利他行」が抱え込む大きな問題です。

 

だから、基本的に仏教では他者対して「良いことをしろ」とは言わない。

慈悲も他者を「害さない」ことが基本であって、他者に対し「自分」が

慈悲の心を育てていくことが本質的なのです。

お布施もあくまで「自分」の執着を手放すために行います。

だから業(カルマ)を作らない聖者(阿羅漢)でもない限り基本的に他者とは

いたずらに関わらないほうが良いと言うスタンスです。

それは煩悩を取り除いていない人間が関わることで、物事を不要に複雑にし

自分の苦しみも相手の苦しみも増やすことになるからです。

大乗仏教ではそれに対する答えを持ち合わせているようです。

わたしが知っているものだと中村元博士の『慈悲』の中に出てくるような

助ける側も、助けられる側も「空」であるという考え方です。

それができれば良いと思いますが・・・)

 

八正道は基本的にあくまで自分の心の問題を扱います。

自分自身がやるかやらないかという「戒」の問題なのです。

そしてその本質的な基準は自分の心が汚れるか(自分の心が清浄から遠ざかるか否か)

ということです。それのみが「正しいこと」の唯一の基準であり

他者がどうであるか関係ありません。

でも自分の心が汚れるようなことをしないということは、結局他者を苦しませないこと

にもつながってきます。

逆にいえば他者(これは全生命を含みます)を苦しませるようなことを行うのは、

自分の心を汚すことにもなるのです。

 

これが基本的なパーリ経典の考え方だと思います。

これを知ったとき(わたしはスマナサーラ長老の著作でこれを知ったのですが)

仏教は恐ろしいほど合理的だと思いました。

本当に純粋に論理的に追及された世界なのです。

人情とか単なる優しさのようなものは入り込む余地がありません。

 

わたしは、あくまでこの前提を受け入れた上で、俗世を生きていきます。

しかし、さてどうするか・・・

 

今の自分の実践

先日、瞑想についてある方とお話をしていた時に、ふと気付いたことがありました。

それは、わたしは瞑想経験の多くを過去形で話している、ということです。

 

実際わたしがヴィパッサナーの実践で経験したことはほとんど全て、死ぬ気で

修行していた2ヶ月間に起こったことです。

その修行によって全てが解決したわけではありませんが、

ひとまず普通に生きていけるところまでは、問題が解決していました。

不安や怒りに苛まれていた日は終わり、完全に穏やかとはいえないものの

また社会と関わりを持ちながら生きられるようになりました。

 

それからは、ヴィパッサナーの実践はやめてしまっていました。

自分にとって切実な動機がなくなってしまったからです。

むしろ、社会への執着をこれ以上絶っていくということを拒んでいるような気持ちも

ありました。確かに今まで普通の生活をするのもままならなかったので

ようやく訪れた世俗的な平穏を手放したくなかったのかもしれません。

 

ただ瞑想を実践していなくても変化はありました。

ヴィパッサナーを実践していないので非常に緩やかですが、

わたしの心は変化していったと思います。

その間も決して平坦ではなく様々な紆余曲折はあったのですが

もう自分や誰かに何かを望む気持ちはなくなっていました。

 

もう懸命にに修行をする必要はなくなっていました。また戒に拘らなく

そもそも戒を破りたいというような衝動は無かったのです。

欲や怒りがまったくない、とは言えないと思いますが、

それは大きくなることはなく、しばらくすると自然と消えてしまいました。

完璧ではないですが、自分には今の時点でこれ以上何か求めることはできない、

そう思っていたのです。

 

ある時、同僚がキリスト教徒だったこともあり、聖書を読んでいたのです。それは昔

英語(と西洋文化)を勉強しようと買った、日英対照訳のものでした。

それを暇に任せて読んでいると、かなり面白く感じられたのです。

日本語だとひどく婉曲的表現されているものが、英語だとかなり直接的に

表現されていて、今まで読もうとして何度も挫折した聖書がかなり

楽しく感じられました。

そこで、ふとパーリ経典も英語と日本語の対照訳で読んだら面白いかもしれない、と

なぜか持っていた英訳版のパーリ中部経典を引っ張り出して、

辞書を引きつつ読んだりしていました。

 

そんな中で、仏教に再び興味を持ち、情報交換ができればと、

Twitterをはじめたのでした。そのときは単純に英語やパーリ語の勉強していって

その結果を共有できれば良いと思っていたのです。

ただ、実際にTwitter上で仏教についてお話ししていると、

経典などの教学についてではなく、また再びヴィパッサナーの実践を

したくなっていきました。

そこで気づいたのは、今までわたしは自分の修行経験を否定的に捉えていた

ということでした。

 

わたしが今も生きていられるのは間違いなくブッダの教えと

それを伝えてくださったテーラワーダの長老方のおかげです。

でもその修行はあまりに苛烈でした。わたしの場合戻れば「死あるのみ」という覚悟

だったのですが、それでも「行くこと」は死ぬよりつらいくらいでした。

行くも地獄、帰るも地獄なら、行くしかないと全速力で駆け抜けた結果、

なんとか生き延びることができたというだけで、それは色々な偶然の産物に

すぎないように思えました(これは仏教的には正しくない認識ですが)

だから、自分の経験は人には役に立たないし、

社会の役にも立たないと思っていたのです。

あまりに特殊すぎるし、誰にも理解されることはないと。

 

しかし、Twitter上でお話ししているうちに、自分がやってきたことは間違いでは

なかったと思えるようになったのです。自分が考えたこと、思ったことと

同じように考えている人がちゃんと世の中にはいるのだと。

今までも、瞑想会に参加して他の瞑想実践者からお話しを聞く機会はあったのですが、

どの方もそれほど真剣にやっているとは思えなかったのです。

真剣に行うというのは生活の全てが修行であると捉える、ということです。

そういう人とはなかなか会うことができませんでした。

(お坊さんでも、日々生きること全てが修行であるということをいう人は

たくさんいます。しかしその多くは忍耐(六波羅蜜で言えば忍辱)について

語っているように見えます。それに対してヴィパッサナーの実践では

「日常においてつねに気づきを絶やさないようにする」ということです。

日常全ては、戒の修行(五根を守るための気づき)、

定の修行(心を落ち着け集中させるための気づき)

慧の修行(「法」を知り執着を減らすための気づき)の実践となります。

それらを完璧に行うのは当然難しいです。しかしそれらをやろうと試みることを

「真剣な修行」というのだと私は思います)

 

しかし、そういう実践者がちゃんといることを知ることができたのです。

生活そのものを仏教的な実践ととらえて生きている人が。

そういう方々のお話しを聞いていると、わたしもまた「真剣に」

実践をしたくなってきました。

 

常に気づきを保つようにし、身にも、受にも、心にも没入せず常に観察する。

妄想、思考してしまう時間を一瞬も許さないようにする。

これが今の目標です。

まだまだまだまだ、ですがまた真剣に実践できることを嬉しく思います。

 

 

 

 

 

 

苦しみがほんの一時だけ終わったある日のこと

ちょうどクリスマスイブのことでした。

その日は朝からビーフシチューを作っていて、没入しないように

冷静に作業をしていました。早く正確に無駄なく集中して。

そんな調子で作り終え、慈悲の瞑想をしながら鍋をかき混ぜているときでした。

 

不意に、暖かくなめらかな多幸感が心から湧き出してきて、

自然に笑顔になっていました。「なんかこういう感じ久しぶりだな」

その当時は瞑想実践においてかなり色々な変化があって、

毎日それに対応するのに苦労していました。

いつも朝から外に歩きに行くのですが、その日は料理を終えてから出かけました。

 

歩きながらも多幸感は消えず慈悲の瞑想をしながら歩いていたのですが、

見るものすべてに慈悲の心を向けられるような、それほど温かいものが胸から

溢れているようでした。そのまま買い物をし必要なものをもって帰りました。

その間多幸感はずっと続いていました。

 

家に戻り多幸感が続いたまま座って瞑想をし始めました。

その当時は長く続けることはこそできませんでしたが、座るとすぐに心が落ち着き

通常と違う意識状態に入ることができたのです。そのときも多幸感の中

ヴィパッサナーを続けていたのですが、不意に何か栓が抜けたような爽快な

感じがして、再び多幸感の波がやってきました。

その波を冷静に観察しようとした時不思議なことが起こりました。想念が全く起こら

なくなっていたのです。何かが思い浮かびそうになってもたちどころに煙のように

消えてしまう。特に気づきによって抑制せずとも自動的に想念が消えて行きました。

それはとても不思議な感覚で、意識は深い青空のように冴えわたっているのに

まるで自分が自分でなくなったような、ただ明確な意識だけがあるような

そんな感じでした。

手の平を見つつ握ってみるとまるで他人の手のように感じられ、体が意志通りに

動くことがとても不思議に感じられました。

 

何か、今まで背負っていたものがすべて降ろせたような満足感と不思議な多幸感に

しばらく手足を色々と動かしてみたり曲げたり伸ばしたりしていました。

それからは、今までの苦しみが嘘のように気分が爽快になり細かいことを気にせずに

よくなりました。道を歩けばあらゆるものに慈悲の心を向けることができました。

道行く人々、川に浮かぶ水鳥前を横切る猫、すべてが好ましく見えて心の底から

親近感がもてるような感じでした。

 

しかし、気づいてしまったのです。すべてのものに慈悲を向けられる代わりに

私の中ではすべて人や生き物が等価になってしまっていました。

家族も友達もすべて他の人や生き物と同じような、まったく特別な愛着もなく

ものや食べ物にも自分にとって「特別なもの」はなくなっていました。

それに気付いた私は本当に自分が誰だかわからなくなったような、自分が

突然消えてしまったかのような感じを覚え、それをひどく後悔しました。

苦しみが溶け幸福になったはずなのに「こんなはずではなかった」という

思いが心に湧いてきました。するとあれだけ安定していた多幸感が消え

壮絶な心の葛藤が始まりました。

 

「自分自身を消して、捨て去ってしまいたい」と強く願っていたつもりが

心の奥底では「普通に生きられるのならば普通に生きて行きたい」と

思い続けていたのです。そしてその「普通に生きる」ということが

二度と叶わないと知った時、わたしは再びひどく動揺し後悔したのでした。

 

 

 

「受け入れられない自分」を受け入れる

 障害を持った人(わたしもその一人ではあるけれど)と話していると

その人自身が障害者に対して強い偏見をもっていることがあります。

それは単純に誰かの受け売りかもしれないし、自分がされてきたことを

そのまま他の人にやり返しているだけなのかもしれません。

 

しかし、わたしは、はじめそのことに強い嫌悪感を抱いていました。

自分自身が辛い目にあっているのに、なぜそんな酷いことをいえるのか、と。

それは他人をないがしろにするのと同時に

自分もないがしろにしていることではないかと。

 

ある瞑想会に参加した時、指導してくださった方が法話をされていて

そのときにこんなことをおっしゃいました。

「人は苦しみの数だけ優しくなれる」

その方は今現在苦しみを抱えている人に対して

それを肯定する意味で言ってくださってのですが、

わたしはそれを聞いてそんなに単純なものではないと

思ったのです。

 

実際には、苦しみを感じている人は、人に対して余裕を持って対応できないし

虐げられてきた人は、攻撃的になったりもします。

優しさを向けているようで、単に過去の自己を投影しているだけだったり、

自分自身を守るために過剰に親切にしていることもあります。

 

これは障害や病気の有無に限らず誰にでも心当たりのあるものだと思います。

ひとは多かれ少なかれ苦しみを抱えているものだから、

単純にひとを大事にしたり、慈しみをもったりすることはできないのです。

 

そういうことを理屈で知りつつもわたしは、嫌悪感をなかなか抑えることが

できませんでした。どうして自分がされて嫌なことをひとに対してしてしまうのか。

それをしないことは人として最低限守らなくてはならないことではないか。

わたしは正義とか倫理とかそういうものに強いこだわりがあったのです。

「人はこうするべきだ、こうあるべきだ」という妄想に囚われていたのです。

 

仏道の実践を行うことは、執着から離れていくことと言えると思います。

執着は怒りや欲、悲しみや失望などあらゆる苦しみを生むからです。

様々な人、もの、出来事、自身の思考、信念、信仰、思い出など

それは大切なものであるとともに、人をがんじがらめにして身動きを

取れなくするようなものでもあります。

そういうものから離れていく、無くしていくというのは心を清浄にしていく上で

大切なことです。

 

しかしそれを実践するときに大切なことがあるように思います。

それは安易に自身の心を押さえつけないことです。

冒頭の話でいえば、わたしが「たとえ自身が散々虐げられてきたとしても、

他人のことを虐げて良いということにはならない」と感じたことは

簡単に否定してはならないことです。確かに虐げられた人間が

苦しみ、嘆き、悲しんだ結果、人に優しく接することができないというのは

仕方のないことです。ただそれが理解できることと、その人を心の底から

許すことができることとは違うのです。

 

当然すべての生き物は苦しみを抱えていて、それに対してあまねく差別なく

慈しみの心を向けられるというのが理想です。そうすることが自分の心の

修行になるからです。それでも他の生物に対しては素直に向けられる慈悲の心が、

人に対してはうまく向けられなかったりします。なぜ、こんなに愚かなのか、

理不尽なのかとても許せない。戦争をして殺し合って、相手を悪者にして

差別をし合って、苦しめあってどうしようもない生き物にみえる。

それは事実です。そしてそれを肯定することも困難なことだというのも

また事実であるといえるでしょう。

このことは誤魔化してはならないことだと思います。

人というものはそういうものなのだからしょうがない、

そういう生き物なのだと割り切ることは、できなくて仕方ない。

悪だと思うものを許せない、それもまた人としての性質です。

 

ですから、自分が悪いと思うこと、どのように肯定的に考えようとしても

決して肯定できないことは、それを適当な理由をつけて受け入れる必要は

ないのです。それは、「瞋」を避けることであっても「痴」を避けること

ではありません。自分が許せないこと、しっかりと判断できて

いないことを、誤魔化して受け入れることはないのです。

その誤魔化しは自身の心に濁りや歪みを引き起こします。

 ではどうしたらいいのでしょうか。

 

「受け入れられない」という自分を受け入れる

 これが仏教の実践が示してくれた一つの答えです。

自身が納得できていないことは、それを否定すればするほど、

押さえつければ押さえつけるほど、より複雑で厄介な形で戻ってきます。

だから「自分はこれを受け入れられない、いくら考えても無理だ」と

「思っていることそのものを」一旦受け入れてしまうのです。

自分はまだまだ頑固な部分がある、こだわりがある

それは事実だ。否定しようがない、と素直に認める。言い訳もしない。

 

こういうアプローチは、先ほどの無理に納得したり肯定することとは違います。

「納得できない、肯定できない」と思っている現在の自分そのものを

受け入れる。これは「痴」を生み出しません。「納得できていない」ということは

自分では誤魔化しようのない事実であり、

そのことを自分ではっきりとわかっているからです。

このような形の受け入れはをすれば、心に厄介な歪みや複雑さ

不要な屈託を抱え込まずに済みます。

これは、他の煩悩に対するやり方としても、有効なことです。

 

しかし受け入れ難いことを、否定するわけでもなく無理やり肯定するわけでもなく

「受け入れる」などということが本当にできるのでしょうか。

これは言葉で説明するとややこしく見えますが、ヴィパッサナーを行えば

すんなりできることなのです。一時的にでも煩悩が抑えれれば、心の機微が

観察できるようになります。受け入れがたさ、これは基本的に怒りなのですが、

その怒りが沈められるとそのもっと根本にある原因が見えてきます。

過去にした経験、そのような「怒り」を引き起こしている原因そのものが

見えるのです。「その時は、確かにそう思った。自分はひどく怒っていた」

それは事実としてみることができる。そういう記憶は確かにあり

それが原因でその物事に対する受け入れがたさを持っている、偏見思っている。

それを本当に確信をもって知ることができるのです。

すると、自分の心とそこで起きていたこと、そして現在起こっていること

(偏見を持っていること、嫌悪感を持っていること、許せないこと)

すべてをまるごと受け入れることができるようになります。

それは、自分の嫌な部分を受け入れながらもまったく、暗くならない、

明るい受け入れの仕方なのです。

 

「自分はまだまだ執着を持っている。でもまぁ今はこんなもんでしょ。

これからまだまだ、やっていかなきゃだめだけどね」と。

 

 

 

 

「苦」を知る

あの時期は、1日に9時間ほど外を歩きながら瞑想し、家では2時間座っていました

(その合間にも歩く瞑想や立つ瞑想、食事の瞑想を行っていました)常に気づきを

保つようにし、疲れ果ててよく気を失うように眠っていました。

それでもそのようにしていることが、当時の自分にとっては一番楽だったのです。

 

ある時、あまりに腰痛がひどくなり、普通には歩けなくなりました。それでも

ゆっくりでも半歩ずつでも歩き続けていたのです。それでもなんとかもう少し

動けるようにならないかと、腰に負担をかけずに歩くことができる

市営プールにいきました。

 

そこには、体を温めるための湯船やサウナがあり、そこで体を温めストレッチを

しながら、水中歩行をしたり泳いだりしていました。

しかし、一度ひどくなった腰痛はなかなかよくなりません。座りすぎて痛む膝も

わたしを悩ませました。

それでも続けることができたのは、そんな体の状況も心も

ヴィパッサナーできたからだと思います。

いくら辛くてもある客観的に冷静にみることができました。

ヴィパッサナーを続けていると、「からだが辛い」「膝が痛い」「腰が痛い」「

思い通りにできない」といった感情とそれに対する「怒り」が心の中で

渦巻いているのがわかりました。

 

しかし、湯船から上がってくる泡を見ていた時、不意に

「苦しみからは逃げられない」という思いが沸き起こりました。

普通ならあまりにネガティブな思いですが、そのときは憑き物が落ちたように

すっきりしたのです。そのまま湯船から出て帰り支度をしようとシャワー室に

入りました。

「いくら、逃れようとしてもこの苦しみから完全に逃れることはできない」

そう思いながらシャワーを浴びると不思議なことが起こりました。

そのとき頭には洪水のように「苦、苦、苦、苦」というラベリングが閃き、

まるでシャワーの水一滴一滴に対し「苦」を感じているようでした。

それは「苦」そのものを浴びているような・・・。

 

これは感覚(受)とは「苦」であるのだと心から認識した経験でした。

それ以来自身のからだに対する苦しみを受け入れるのは、

難しいことではなくなりました。

 

「そのままでいい」という困難

セラピーにしろ宗教にしろ一つの考え方としてクライアント(受け手)を

「そのまま」「ありのまま」肯定するというアプローチがあります。

それは一つ有効な手段だと思います。

なぜなら、人は基本的に他者からの承認を求めるものであるからです。

 

セラピーや宗教に自分に対する「救い」を求めているのならば当然でしょう。

原因が病気であるとか、障害であるとか、不幸であるとか様々だと思いますが

「救い」を必要としている人というのは、現実的な社会ではうまくいっていない人、

といえます。

 

社会において他者から認めらえる、受け入れられるにはいろいろな方法があります。

例えば、良い職業に就くとか、良い収入を得るとか、難しい資格を取得するとか、

難しい大学に受かるとかそういった自身の努力によって得るもの。

あるいは容姿が良いとか、家がお金持ちであるとか、頭が良いとか努力ではなく

自分の努力ではなく、いわば先天的に決められた資質や環境によるもの。

これらは手に入るのであれば誰もが手に入れたいものかもしれません。

 

しかし、なぜ誰もが手に入れたいかといったらそれが社会的に価値があるものとされて

いるからです。経済的な観点から言えば

「価値のあるもの」=「希少なもの」です。

皆が欲しがるもの、そして欲してもなかなか手に入らないものだからこそ、価値がある

といえます。これが何を意味するかといえば

価値があるものというのは多くの人にとって手に入らないものだ、ということです。

それはそのまま、

価値があるものを持つということを成功や幸福の条件にするならば、

多くの人が不幸になるということです。

 

こんなことはある程度生きていれば経験的にわかるものです。

そのように誰もが欲するような価値のあるものは、簡単に手に入るものではない。

だから、もっと個人的なものを、自身の目的としたり、価値のあるものとするのです。

やりがいのある仕事を見つける、熱中できる趣味を持つ、好みの伴侶をみつける、など

それにも様々な種類があります。それを得ることができれば必ずしも成功や

幸福とは言えないかもしれませんが、自身の満足を得られるものです。

 

もし、社会的に価値のあるもの、個人的に価値のあるものを

得られないとするならばその人はどうなるでしょうか。

自分に対し幸福も得られず満足も得られないかもしれません。

それでも例えば、仲の良い友達がいるとか家族がいるとかそういうことで

人は生きていくことができます。まず健康的な体があればとりあえず

働くことができます。

 

しかし、それも得られないとしたら。

収入もなく仕事もなく学歴もなく実家も貧乏で友達もいない。そんな状態だったら?

それは自分が努力してこなかったからではないか。少なくとも個人的に得ることが

できたものはたくさんあったはずだ。それをしなかったのは本人が悪い。

これは至極まっとうな意見でしょう。

 

生きいくということは、生存するということは努力し続けるということです。

本来生物はそのようにできています。自然環境のなかでは生きる努力をしなければ

すぐに死んでしまいます。努力をしなくてもある程度生きられるというのは

人間くらいのものでしょう。

 

それでも、です。社会には構造的に必ず自己承認に必要な材料を得られない人は

確実にいます。病気や障害など先天的な要因から、育った家庭環境、国、時代、

個人ではどうしようもないことが原因となることもあります。努力ができる、

がんばることができる、ということも様々な好条件が集まった結果であると

いえるでしょう。いくら努力しても結果が出ず、頑張っても認められないのであれば

努力をしようという意欲もなくなっていきます。

 

そんな人は何によって救われるのでしょうか?社会的にも個人的にも自己を承認できる

材料は何もないとしたら。あるいは本当は持っていたとしても、それを自分では

認めることができないとしたら。

 

そうなったら、社会や自分自身とは違うものに認めてもらうしかありません。

現在が不幸であるならば、誰かに不幸な自分を認めてもらわなくては生きているのが

辛いでしょう。不幸の原因に着目しその原因さえ取り除かれれば、

幸せになると考えるならば医療やセラピー(これには医療に属するものから、

宗教に限りなく近くなるものまで様々です)に頼ることになります。また

現世利益をうたう宗教(特に新興宗教が多いとは思いますが)もいう通りにすれば

不幸を取り除いてくれるというかもしれません。

 

しかしこのような発想には弱点があります。原因が取り除かれなかった場合

救いを求めていた人は大きく失望します。そして原因を取り除くとうたう

存在から遠ざかっていくか、また新たに救ってくれる対象を探します。

 

世界中で信仰されている普遍宗教にはこのような弱点を避けるような構造があります。

キリスト教イスラム教も(大乗)仏教も基本的に現世では

救われるのかわかりません。現世では結果がわからないが信じる。

これはある意味承認されないという「結果」さえも受け入れる態度を求めている

といえます。現世(世俗、一般社会)における価値ではない別の価値体系が

あることを提示するのです。

 

しかし、実際には人間はそんなに簡単に社会とは違う価値体系を

信じきることはできません。それはやはりいくら宗教的価値は判断のもとに

生きていようとも、苦しいものは苦しいし、辛いものは辛いのです。

世界宗教に受苦や禁欲、忍耐といった教えが含まれるのは裏を返せばそれを

宗教的に肯定しなければとてもやっていられないという現実があるからです。

 

そのままでいいと認められたい。でも本当はそのままでいいと認められたところで

それで解決するわけではない。

例えば、マザーテレサは真に義人と呼ぶにふさわしい方だと思いますが、

『来て、わたしの光になりなさい』には彼女が神の存在を信じられず

信仰することに悩み苦悩する様が描かれています。それは彼女の直面する現実が

あまりに厳しく悲劇的であったためだと思います。

 

周りの人から聖女と称えられ希望の対象になるほど立派な人でも、

自身の信仰が揺らいでしまうほど残酷な現実はあります。そのような現実と

対峙した時にそのような現実の中にいる自分を「そのままでいい」と

本当に認めることができるのか、 それをたとえ絶対的な存在に認められたところで

自身は真に納得することができるのか。

 

これは「救い」をもとめる全ての人に関わる困難です。

「そのままでいい」ということも認められず、

「そのままではダメ」だからと努力しても

それが成就するとは限らない。ここまで来てそれでも、

「そのままでいい」とそこにとどまり自身や世界を肯定するか

「そのままではダメ」だと一歩を踏み出し自身から抜け出していくのか、

どちらの立場も決死の覚悟を必要とします。

 

わたしの信じた仏教は、命がけで一歩を踏み出し暴風吹き荒れる荒野を

一人で往くような、そんな教えでした。

 

 

わたしの絶望史①

世界の見え方が一瞬にして変わってしまう。

そのような経験はよく宗教的な回心として語られますが、

わたしもそのような経験をしたことがあります。

 

それは中学三年の夏休みが終わった頃、部活も引退しいよいよ本格的に

受験勉強に向かおうという時でした。

それまでは部活で忙しく自身のことなんて考える余裕がなかったわたしは、

時間ができたことで少し将来のことを考えたり、今までの人生を振り返ったり

していました。その当時わたしはすごく充実した生活を送っていて、

夏期講習の模試で県内トップの点数をとったり、勉強も結果が出て第一志望の高校に

問題なく受かりそうでした。


しかし、一方で部活を引退してしまったことで運動をしなくなり少し自分を

持て余していたのです。

「考えてみると、子供の頃から運動ばかりしていたなぁ」


幼い頃から外で動き回るのが好きで、小学生になってからは水泳、サッカー、

バスケと週のうち6日は外で走り回っていたました。競技会に出ればそれなりの

結果を残し、スポーツに関してはずっと充実していました。

だから、一度スポーツから離れてみると、余裕ができたとともに

何か心にぽっかりと穴が開いたようでした。

 

ある日塾からの帰り道に将来について考えを巡らせている時でした。

「将来を決めるために、わたしの中には何があるんだろう。

どんなものをもっているのだろうか?」

そんな疑問に対し、自分の中にあった答えは「勉強」と「運動」だけでした。

本当にそれしかなかったのです。どちらも自分なりに結果を出せていたし、

周りからも評価されていて自分にとってそれらは本当に確かなものでした。

 

しかし、自分には「勉強」と「運動」しかないと気づいた瞬間に

まるで急激に世界が歪んでいくような経験をしました。

 

「自分のなかで確かなものだと思っていた「勉強」と「運動」それを取り去ってしまえば、わたしのなかには何も残らない。わたしは何も持っていない。

『確かだ』と思っていたことも、単に自分が勝手にそう決めつけていただけで、

ただの勘違いに過ぎない。わたしには本当に何もない。

何かあると思い込んでいただけなのだ」

 

そのような考えが去来して、本当に夢から醒めるように急激に

頭が冷えていくようでした。今までの経験のなかで漠然と知っていたことが

急激にはっきりとした像を結び、ものすごいリアリティを伴って迫ってきたのです。

 

「自分が今ままで信じてきたものには、根拠がない。自分が勝手に信じていただけだ」

 

そのあと家まで帰る道すがら見た景色はやけに空々しく感じられました。

すべてのものは無意味で、フラットで薄っぺらい。

自分とはまったく距離のあるよそよそしい世界。

わたしにとって、生きる意味のようなものはまったく失われてしまい、

それからはまるで死んだように生きていくことになります。