絶望を乗り越えるための仏教

どのようにして絶望したか、そしてをそれを乗り越えるために何をしたか

今の自分の実践

先日、瞑想についてある方とお話をしていた時に、ふと気付いたことがありました。

それは、わたしは瞑想経験の多くを過去形で話している、ということです。

 

実際わたしがヴィパッサナーの実践で経験したことはほとんど全て、死ぬ気で

修行していた2ヶ月間に起こったことです。

その修行によって全てが解決したわけではありませんが、

ひとまず普通に生きていけるところまでは、問題が解決していました。

不安や怒りに苛まれていた日は終わり、完全に穏やかとはいえないものの

また社会と関わりを持ちながら生きられるようになりました。

 

それからは、ヴィパッサナーの実践はやめてしまっていました。

自分にとって切実な動機がなくなってしまったからです。

むしろ、社会への執着をこれ以上絶っていくということを拒んでいるような気持ちも

ありました。確かに今まで普通の生活をするのもままならなかったので

ようやく訪れた世俗的な平穏を手放したくなかったのかもしれません。

 

ただ瞑想を実践していなくても変化はありました。

ヴィパッサナーを実践していないので非常に緩やかですが、

わたしの心は変化していったと思います。

その間も決して平坦ではなく様々な紆余曲折はあったのですが

もう自分や誰かに何かを望む気持ちはなくなっていました。

 

もう懸命にに修行をする必要はなくなっていました。また戒に拘らなく

そもそも戒を破りたいというような衝動は無かったのです。

欲や怒りがまったくない、とは言えないと思いますが、

それは大きくなることはなく、しばらくすると自然と消えてしまいました。

完璧ではないですが、自分には今の時点でこれ以上何か求めることはできない、

そう思っていたのです。

 

ある時、同僚がキリスト教徒だったこともあり、聖書を読んでいたのです。それは昔

英語(と西洋文化)を勉強しようと買った、日英対照訳のものでした。

それを暇に任せて読んでいると、かなり面白く感じられたのです。

日本語だとひどく婉曲的表現されているものが、英語だとかなり直接的に

表現されていて、今まで読もうとして何度も挫折した聖書がかなり

楽しく感じられました。

そこで、ふとパーリ経典も英語と日本語の対照訳で読んだら面白いかもしれない、と

なぜか持っていた英訳版のパーリ中部経典を引っ張り出して、

辞書を引きつつ読んだりしていました。

 

そんな中で、仏教に再び興味を持ち、情報交換ができればと、

Twitterをはじめたのでした。そのときは単純に英語やパーリ語の勉強していって

その結果を共有できれば良いと思っていたのです。

ただ、実際にTwitter上で仏教についてお話ししていると、

経典などの教学についてではなく、また再びヴィパッサナーの実践を

したくなっていきました。

そこで気づいたのは、今までわたしは自分の修行経験を否定的に捉えていた

ということでした。

 

わたしが今も生きていられるのは間違いなくブッダの教えと

それを伝えてくださったテーラワーダの長老方のおかげです。

でもその修行はあまりに苛烈でした。わたしの場合戻れば「死あるのみ」という覚悟

だったのですが、それでも「行くこと」は死ぬよりつらいくらいでした。

行くも地獄、帰るも地獄なら、行くしかないと全速力で駆け抜けた結果、

なんとか生き延びることができたというだけで、それは色々な偶然の産物に

すぎないように思えました(これは仏教的には正しくない認識ですが)

だから、自分の経験は人には役に立たないし、

社会の役にも立たないと思っていたのです。

あまりに特殊すぎるし、誰にも理解されることはないと。

 

しかし、Twitter上でお話ししているうちに、自分がやってきたことは間違いでは

なかったと思えるようになったのです。自分が考えたこと、思ったことと

同じように考えている人がちゃんと世の中にはいるのだと。

今までも、瞑想会に参加して他の瞑想実践者からお話しを聞く機会はあったのですが、

どの方もそれほど真剣にやっているとは思えなかったのです。

真剣に行うというのは生活の全てが修行であると捉える、ということです。

そういう人とはなかなか会うことができませんでした。

(お坊さんでも、日々生きること全てが修行であるということをいう人は

たくさんいます。しかしその多くは忍耐(六波羅蜜で言えば忍辱)について

語っているように見えます。それに対してヴィパッサナーの実践では

「日常においてつねに気づきを絶やさないようにする」ということです。

日常全ては、戒の修行(五根を守るための気づき)、

定の修行(心を落ち着け集中させるための気づき)

慧の修行(「法」を知り執着を減らすための気づき)の実践となります。

それらを完璧に行うのは当然難しいです。しかしそれらをやろうと試みることを

「真剣な修行」というのだと私は思います)

 

しかし、そういう実践者がちゃんといることを知ることができたのです。

生活そのものを仏教的な実践ととらえて生きている人が。

そういう方々のお話しを聞いていると、わたしもまた「真剣に」

実践をしたくなってきました。

 

常に気づきを保つようにし、身にも、受にも、心にも没入せず常に観察する。

妄想、思考してしまう時間を一瞬も許さないようにする。

これが今の目標です。

まだまだまだまだ、ですがまた真剣に実践できることを嬉しく思います。