絶望を乗り越えるための仏教

どのようにして絶望したか、そしてをそれを乗り越えるために何をしたか

正しいことをするということ

仏教(パーリ経典に描かれるような)においては「正しいこと」というのは

それそのものとして存在するものではないようです。

八正道の定義など(中部『大四十経』にまとめられているように)「正しいこと」

というのは「『悪くこと』をしないこと」として表現されています。

これは少し回りくどいようですが、非常に合理的な考え方です。

 

なぜなら「正しいこと」「良いこと」を定義するのは難しい。

それは正義に対する議論が盛んに行われていることからも明らかです。

誰かにとっての「正しいこと」というのは、誰かにとっての間違ったことであり、

時ににその「正しいこと」の押し付け合いが争いの種となります。

それは国同士の争いや宗教的な対立のような大きい話だけでなく、

ごく身近なものにおいてもそうです。

道端のゴミを拾うとか、職場をきれいに保つとか無条件に「良いこと」といえることも

確かにあるのですが、特に人に関わることにおいては何が良いことなのか

よくわからない。

例えば障害を持った人が何かできないことがあるとします。

それである人は「障害をもっているのだから」ということで

なんでもやってあげてしまう。

やってあげる人は善意で、優しさでやってあげるのです。

当然される側もやってもらえるのであればやってもらったほうが楽です。

する側もされる側も「良いこと」と思ってやっている。

でもそうするとやってもらう側の人は一人では何もできなくなってしまいます。

(本当はこんなに単純ではありませんが)

それは長期的に見れば本人の不利益になるばかりか、

高齢であればその人の寿命にも関わってくるかもしれません。

自分の力でやる、できることがあるというのはそれほど大事なのです。

かといって、障害ゆえにできないことを放っておくわけにはいきません。

それは「(能力として)できない」のか

「できるのに、(やりたくないから)しないのか」

「できるのに、(障害ゆえに)やる意欲が起きないのか」

「(今は)できないけれど、(その先も考えて)やらなくてはならないのか」

いろいろと考えなくてはならないことはあります。

これは非常に微妙な問題です。

援助する側が「良かれ」と思ってやったことで

援助される側に喜んでいたとしても、実は本人にとって不利益になることもあるし、

援助される側が嫌な思いをしたとしても、それゆえにより重大な危険を

避けられたりするかもしれません。

これは結局のところわかりません。それがどのような時点で「良いこと」といえるかは

わからないからです。

これに援助する側の状況も入ってくる(例えば時間的な制限があり限られた

援助しかできない、とか経済的、体力的制限とか)ともう何をするのが「正しい」

といえるのかわからない。

他者に対して絶対に「正しい」ことをするのはほとんど無理です。

これはいわゆる「利他行」が抱え込む大きな問題です。

 

だから、基本的に仏教では他者対して「良いことをしろ」とは言わない。

慈悲も他者を「害さない」ことが基本であって、他者に対し「自分」が

慈悲の心を育てていくことが本質的なのです。

お布施もあくまで「自分」の執着を手放すために行います。

だから業(カルマ)を作らない聖者(阿羅漢)でもない限り基本的に他者とは

いたずらに関わらないほうが良いと言うスタンスです。

それは煩悩を取り除いていない人間が関わることで、物事を不要に複雑にし

自分の苦しみも相手の苦しみも増やすことになるからです。

大乗仏教ではそれに対する答えを持ち合わせているようです。

わたしが知っているものだと中村元博士の『慈悲』の中に出てくるような

助ける側も、助けられる側も「空」であるという考え方です。

それができれば良いと思いますが・・・)

 

八正道は基本的にあくまで自分の心の問題を扱います。

自分自身がやるかやらないかという「戒」の問題なのです。

そしてその本質的な基準は自分の心が汚れるか(自分の心が清浄から遠ざかるか否か)

ということです。それのみが「正しいこと」の唯一の基準であり

他者がどうであるか関係ありません。

でも自分の心が汚れるようなことをしないということは、結局他者を苦しませないこと

にもつながってきます。

逆にいえば他者(これは全生命を含みます)を苦しませるようなことを行うのは、

自分の心を汚すことにもなるのです。

 

これが基本的なパーリ経典の考え方だと思います。

これを知ったとき(わたしはスマナサーラ長老の著作でこれを知ったのですが)

仏教は恐ろしいほど合理的だと思いました。

本当に純粋に論理的に追及された世界なのです。

人情とか単なる優しさのようなものは入り込む余地がありません。

 

わたしは、あくまでこの前提を受け入れた上で、俗世を生きていきます。

しかし、さてどうするか・・・