絶望を乗り越えるための仏教

どのようにして絶望したか、そしてをそれを乗り越えるために何をしたか

苦しみがほんの一時だけ終わったある日のこと

ちょうどクリスマスイブのことでした。

その日は朝からビーフシチューを作っていて、没入しないように

冷静に作業をしていました。早く正確に無駄なく集中して。

そんな調子で作り終え、慈悲の瞑想をしながら鍋をかき混ぜているときでした。

 

不意に、暖かくなめらかな多幸感が心から湧き出してきて、

自然に笑顔になっていました。「なんかこういう感じ久しぶりだな」

その当時は瞑想実践においてかなり色々な変化があって、

毎日それに対応するのに苦労していました。

いつも朝から外に歩きに行くのですが、その日は料理を終えてから出かけました。

 

歩きながらも多幸感は消えず慈悲の瞑想をしながら歩いていたのですが、

見るものすべてに慈悲の心を向けられるような、それほど温かいものが胸から

溢れているようでした。そのまま買い物をし必要なものをもって帰りました。

その間多幸感はずっと続いていました。

 

家に戻り多幸感が続いたまま座って瞑想をし始めました。

その当時は長く続けることはこそできませんでしたが、座るとすぐに心が落ち着き

通常と違う意識状態に入ることができたのです。そのときも多幸感の中

ヴィパッサナーを続けていたのですが、不意に何か栓が抜けたような爽快な

感じがして、再び多幸感の波がやってきました。

その波を冷静に観察しようとした時不思議なことが起こりました。想念が全く起こら

なくなっていたのです。何かが思い浮かびそうになってもたちどころに煙のように

消えてしまう。特に気づきによって抑制せずとも自動的に想念が消えて行きました。

それはとても不思議な感覚で、意識は深い青空のように冴えわたっているのに

まるで自分が自分でなくなったような、ただ明確な意識だけがあるような

そんな感じでした。

手の平を見つつ握ってみるとまるで他人の手のように感じられ、体が意志通りに

動くことがとても不思議に感じられました。

 

何か、今まで背負っていたものがすべて降ろせたような満足感と不思議な多幸感に

しばらく手足を色々と動かしてみたり曲げたり伸ばしたりしていました。

それからは、今までの苦しみが嘘のように気分が爽快になり細かいことを気にせずに

よくなりました。道を歩けばあらゆるものに慈悲の心を向けることができました。

道行く人々、川に浮かぶ水鳥前を横切る猫、すべてが好ましく見えて心の底から

親近感がもてるような感じでした。

 

しかし、気づいてしまったのです。すべてのものに慈悲を向けられる代わりに

私の中ではすべて人や生き物が等価になってしまっていました。

家族も友達もすべて他の人や生き物と同じような、まったく特別な愛着もなく

ものや食べ物にも自分にとって「特別なもの」はなくなっていました。

それに気付いた私は本当に自分が誰だかわからなくなったような、自分が

突然消えてしまったかのような感じを覚え、それをひどく後悔しました。

苦しみが溶け幸福になったはずなのに「こんなはずではなかった」という

思いが心に湧いてきました。するとあれだけ安定していた多幸感が消え

壮絶な心の葛藤が始まりました。

 

「自分自身を消して、捨て去ってしまいたい」と強く願っていたつもりが

心の奥底では「普通に生きられるのならば普通に生きて行きたい」と

思い続けていたのです。そしてその「普通に生きる」ということが

二度と叶わないと知った時、わたしは再びひどく動揺し後悔したのでした。